東日本大震災、ダウン症の息子の子育てのなかで生まれたもの

今回のターニングポイントについてのお話は
映画監督・アーティストの数間よし乃さんにお聞きしました。

よし乃さんは、現在、ご主人と4月から小学1年生になる息子さんの3人家族。
東京都にお住まいです。

映画監督、カメラマン、運動指導、そして、障害のある息子さんの子育て。
いくつもの顔をもつよし乃さん。

よし乃さんのターニングポイントは2つ。
1つは2011年3月11日、東日本大震災の経験
2つは42歳でのダウン症の息子さんを出産したこと

それぞれのターニングポイントについてお話を伺いました。

東日本大震災の2011年3月11日は
どう過ごしていましたか?

旦那さんのお仕事で南相馬に転勤になったのが結婚して5、6年目の頃。
主人の実家で同居することになりました。

2011年3月11日14:46、地震の時はちょうど図書館にいました。お友達と図書館で会ってたんです。

ずっと正社員で働いてたのを辞めて旦那さんの家に入ったので、
職業訓練校に通い、卒業後に学校で講座をやらないかと声を先生にかけて頂き、
卒業生の友人とその講座の打合せをしてたら地震がきました。

幸い図書館も新しい建物だったので、本棚が倒れることはなかったんです。
それでもやっぱすごい揺れで、本がみんなパタパタ、パタパタ落ちて。
机の下に避難してくださいって放送が入ったり、職員さんが見回ったりして。

地震がちょっと落ち着いたら安否確認するから外の広場に集合して、
況状確認するまで待機してくださいって。
開放されたのが30分後ぐらいでした。

その間に、近くにあった図書館のカフェのテレビで、
1時間後に津波4〜5メートル来るみたいな情報が出てて。
うちも津波来るかなって思ったんですよね。

ちょうど家が海まで300メートルぐらいのところだったんです。

それで、確認しなきゃと思って、まだ津波までは間に合うと思って家に戻りました。


義理のお父さんと連絡取れなかったんですが、
多分、避難所に行かなきゃいけないと思って、車に、毛布を入れたり、
荷物持ってきたりしてるうちに父が帰ってきて、
もう行くよって言われて、家を出たら家の裏の川の水が引いていたんです。


これを見て、お父さんは津波が来るのわかったのかな・・・みたいな感じでした。

近くに住む親戚を車に乗せながら避難している途中、
車が一斉に上がってきて、津波が来たんだと思いました。
実際、その5分後ぐらいに9.3m以上の大きい津波が来たんですよね。

旦那さんの職場も地震直後、避難所になり地震の晩は帰宅できず
義理の父と避難所を転々とした後、着の身着のまま公民館で夜を明かしました。

その日はもう食べるものもなくって。
夜11時ぐらいに炊き出しやっと出来てみたいな感じでしたね。

次の日に、東京電力の原子力発電所の1号機の煙が出始めて、
それまで地震が来ると外に逃げてって感じだったのに、
放射能を浴びたら危ないから戸を閉めて中に入って!

というアナウンスがあり原発から10km、20km内の避難指示も出て
どこまで大丈夫なのかっていうのが、わからなく、ものすごい不安になりました。


地震の次の日、午後は夫も職場から帰宅でき
一旦私の実家の会津の方へ避難しました。

ご自宅の状況

地震の1週間後に自宅を確認しに会津から南相馬市へ一度戻りました。

地震後は、
・12日1号機水素爆発
・14日3号機建設水素爆発、2号機燃料棒全露出
・15日2号機原子炉建屋の損壊
が起こり

原発から20~30キロ圏内屋内避難、自主避難要請が出て
自宅の場所も原発から23キロ程だったので
放射能汚染が不安な時期でした。

自宅があった沿岸部は、まだ瓦礫が沢山で津波で流された人たちを
消防の人たちが安否確認や見回りに来ていたりしている中、


自宅の場所に行くと、母屋、納屋、蔵など全てなくなり
母屋の玄関のコンクリートだけが残り
義父が使っていたトラクターは
瓦礫の中で壊れているのを確認し、会津に帰ることが出来ました。

地震後の暮らしと想い

旦那さんのお父さんも連れて、2か月ぐらいは私の実家の離れに3人で避難していました。

働き者の父でしたが、知らない土地では遠慮などもあり
毎日に動けずじっとしているのはかわいそうでした。


義父は 放射能の不安があっても、やっぱり地元に帰りたい想いがあったし、
津波にかかった土地をどうするか?

南相馬での打ち合わせなどもあり、
父は5月くらいには帰ったんですよね。

南相馬市に帰った父は、
勝手知ってる土地や仲間がいる所にいるのは 幸せそうでした!

やはり 、自分の裁量で自由に動けること、
やるべき仕事があることって、
その人らしくいるために大切なんだなぁと思いました。

本当、3/11の津波で家が流れて、着の身着のままで避難だったので
着替えもない感じだったから、お洋服譲ってもらったりとか。


1から着るもの生活するものをいただいたり
たくさん支援していただいたなって思います。

だから、なんかそれを思うと、今、本当ね、
何不自由なく、生活できるので、 ありがたいなって思います。

ある程度瓦礫とった後(地震から1~2年後

色々な決断の一つ、福島を離れるということ

震災後、2度流産したことで精神的に落ち込んでいたのを夫が心配してくれた事
ガイヤカウンターで除去できていない所を測定すると高いところもあり、


放射能の不安より「汚染されたものは誰も食べないよ」と私は義父に言い、
嫁ぎ先では米や麦をつくることを辞め、田んぼを手放しました。

今思うと本当ひどい事を言っていたと思うのですが
何が安全で安心なのか?公に行っていることは 本当になのか?
疑心暗鬼が強かったし不安でした。

また、子育てのことも考えると、原発から遠い方が安心だと思い、
県外への移住を決め、神奈川に移ったのは大きな決断でした。

福島を離れて後に妊娠、出産

福島を離れて2〜3年、40歳まで不妊治療をしていたけれども
中々授からず、あきらめた後、41歳で自然妊娠し、42歳で出産。

妊娠しても流産した時を考えてしまって
自分が赤ちゃんを殺してしまう悪夢を見て
泣いて目が覚める事が多々ありました。

そんな時、古事記の勉強会の先生に生まれた土地、
住んでいる土地の神社を大事にする事、
大祓祝詞をあげること、毎日お参りするをすると良いと聴き、
お参りをするようになったら心が落ち着くようになりました。

また、8ヶ月の妊婦健診の時、
お腹にいる赤ちゃんの心臓に水が溜まっているのが分かり
大学病院に緊急入院し、穿刺して水を抜きつつ経過観察してました。

入院しながら計画出産の予定でしたが、
胎児モニターで苦しそうになってるとの事が分かり
計画出産の3日前の午後、緊急帝王切開での出産になりました。

無事に生まれたとホッとしたのもつかの間、健康な赤ちゃんではなく

1790グラムの低体重胸水が溜まっていること
腸に障害があり手術が必要で

手術をするかどうか?決めて下さいとの話がありました。

また、ダウン症の疑いもあるので 検査をしましょう
と言われ混乱しましたが、
間違いであってほしい思いつつ検査をお願いしました。

普通だったら出産おめでとうと面会があったり
喜びの日だと思うのですが、

遠方の両親に伝えると障害の子を育てるのは大変なことだから、
手術をしない選択肢もあることも考えて決めたほうが良いよ
言われてショックだった。

手術をしない選択って出逢ったばかりの息子を
殺しちゃうって事じゃないかって・・

それも生まれた日にお別れする話も出るなんて
なんて日なんだろうと、とても悲しい想いも募った出産でした。

両親もかつて、今は亡き一番上の姉が早産で生まれ
身体の弱かった姉は、ワクチン接種後、小児麻痺にかか
4歳まで寝たきりで無熱性肺炎で亡くなりました。


今よりも50年も前の田舎での子育て、
きっと両親も私達子どもには言えない苦労があったのだろうと思います。

結婚して11年、やっと出逢えた我が子。


たとえ、障害があっても頑張って10ヶ月
お腹にいてくれた我が子の命を守るため、
設備の整った大学病院での手術をお願いしました。

約1ヶ月後、体重も2500グラムになり
退院出来るまでになり、遺伝子検査からダウン症が確定しました。

初めは 息子や長男の嫁だったし
嫁ぎ先に元気な子で生んであげれなくて
申し訳ない想いでいっぱいでしたが

100日お祝いでのお喰い初めの時 、義父に

「みんないろいろあるんだ!」

と息子をかわいがってくれる姿を見て
とてもホッとしたを今でも覚えています。

障害がある子の世界をもっと知りたくて
以前勉強していた障害者スポーツ指導員中級を夫に息子を預けて勉強に行くと

「無いものを探すのではなくあるものを生かす世界」
「それを支えてくれる人がこんなにも居ること」

にとっても世界が広がりました。

そして息子がダウン症であるがゆえに、
普通の子より成長がゆっくりだったり、呼吸する事、
お通じがある事、知的障害や難聴があり

発語が 6歳の今でも厳しいなどのトラブルも多く
どうしたって普通の子と同じようにできないのを、
どう自分が受け入れるかだったり、

ゆっくり育つこと、人と違う事を受け入れながらも、
息子の出産をきっかけに、
私自身、息子がいてもできることを模索しました。

生後数ヶ月から写真を習ってカメラマンになったり、
龍を感じるようになって
絵を描き始めてアート活動をしたり。

そんな中、コロナをきっかけにある
活動を始めることになりました。

コロナが始まり緊急事態宣言が出たりした時、
東日本大震災の放射能汚染とも重なり

非常事態でも大切にしないといけないことは何なのか?

日本人が長年大切にしてきた神社などをスポットを当てて
東京でも1900年以上続く大國魂神社や福島の神社などにお願いをして


コロナ禍神社を守る人びとの様子を
ドキュメンタリー映画を制作する為に撮影を始めたり。

あと、たみちゃん(阿部民さん)たちの出会いで、
感じたことをそのまま表現することの素晴らしさを体感していきながら

いろんな生き方があっていいんじゃないのかって
自分に丸をつけるというか、
息子にも周りにも、そう思える機会になったかなって思います。