人生で辛かった出来事と家族について(前編)

人には、振り返れば、人生を変えるターニングポイントがいくつかあります。

そんな大切なターニングポイントをお話ししてくださったのは比嘉葉子さん。

葉子さんのご家族を通してのターニングポイントを前編、後編に分けてお伝えします。

ターニングポイントを振り返っての大きな気づきもありました。

一番傷付いた言葉

私は、自己紹介や自分のことを聞かれることが、好きではありませんでした。

なぜなら私が育った家庭は、世間一般にあるような家庭では
なかったのでそのことを知られたくなかったからです。
私は、県外出身である父の隠し子で、母は43歳の時に未婚で私を産みました。

初対面の人から最初に聞かれることは大概

「肌が白いね。ナイチャー(県外出身)?」

という問い。
その度に、私自分のアイデンティティというものに向き合わされる。

「母は沖縄出身で、父は長野の人だから・・・」

そこまで話すと、苗字のことや父の話を続けて聞かれることが
多かったのでそれが嫌でたまらなかった。

私の旧姓も沖縄では珍しく、顔も薄いほうなので、そんな質問を
受けるのは仕方なかったのですが、

ある時から正直に答えなくてもいいと考えるようになって
「ナイチャーに間違えられるけど、産まれも育ちも“沖縄“」
とだけ笑って答えていた時期が長くありました。

友達や自己紹介をしないといけない時はまだよかったのですが、
私の親のことに興味がある
大人が何気に聞いてくる

「お父さんは?」

という言葉が一番、傷つきました。
正直に話すと母に悪い気がするけど、だからといって、嘘をついて話した時は、それはそれで後ろめたさを感じる。

そもそも父のことについて、ほとんど知らされていなかったので、
いづれにしても哀しい気持ちになるのでした。

生まれる前のこと

1975年の初夏の頃、私は、なぜか右頬が火傷を負ったかのように、赤く腫れた状態で産まれましたが、それ以外は、五体満足の健康優良児で、母の愛情を一身に受けて育ちました。

私が産まれる数年前に、母は、全盲の大叔母の面倒を一人でみながら、昼間は働き、夜は夜間大学に通って教師の免許を取ろうと、
頑張っていた時に父と出逢い仲良くなったそうです。

ある時、体調の変化を感じ、妊娠したことを知った母でしたが、全盲の大叔母という絶対的な足かせがありました。

生活の基盤が県外である父との話の折り合いもつかず、お腹の中の
私はどんどん成長していき、産むかどうか迷っているうちに結局おろせない時期まできてしまい、母は一人で産み育てることを決意したそうです。

このことは、母が亡くなる数年前、私が22、3歳の時に、母から渡された一冊のノートに記されていました。

父との出会いから始まり、父には別の家庭が
あったことを含め、連絡が途絶えてしまった時のことまでが時系列に当時の心境と共に書かれてあり、一人の女としての苦悩が綴られていました。

私がそれまで父について知っていた情報は名前と出身県名と職業。

そして、心臓が弱かったということくらいでそれ以外は、何も知らされておらず小さい頃は、職場が東京だから離れて暮らしていることが当たり前だと思っていました。

でも、さすがに小学3年生くらいになると、父が学校行事には一度も来てくれないし、誕生日といった特別な日にすら電話も手紙も一度もない状況が、一般的な家庭とは違うということに気づき出しました。

私が10歳の時に数年ぶりに逢った時も、その状況を父に尋ねる勇気はありませんでした。

ただ淡々と話をしていたかと思います。
その後は、完全に母と私の中で父に関することは禁句となりました。

最後に父に逢った日のこと

私が県内の会社へ20歳で就職してからまもなく経ったある日、仕事から帰って来るや否や、母からいきなり

「あんたのオヤジが今、沖縄に来ているから、認知してもらうように話しなさい」

と言われました。私は、10年ぶりに父に逢える嬉しさなんてものはなく、認知の件もどうでもよかったのですが、三人で逢うことに了承しました。

再会の食事の席は、なんだか空気が重かったくらいの記憶しかなく
後に、母の手記から、認知の件は後日に連絡するという約束だったはずが何の進展もなく、それどころか、父からの連絡がそれっきり途絶えたことを知りました。

そして、私にとっては、その日が父に逢った最後の日となってしまいました。

人生で一番辛かった時期のはじまり

現在、二人の子育てをしながら、40代ラストの人生を楽しんでいますが、私が人生で一番、辛かった時期は、それから間もなくのことでした。

母の喘息がどんどん悪化し、肺結核後遺症と診断され、酸素ボンベ無しでは呼吸できない状態になり、元々、食が細いほうでもあったので、鎖骨にお水が溜まるほど、激やせし入退院を繰り返すようになりました。

介護認定を受けてからは、日中、私が仕事に行っている間の2時間ほどは、食事を作って食べさせてくれるヘルパーさんの助けを借りる生活を余儀なくされました。

一度は、体調が悪化して集中治療室に入り食事もろくに摂れない状態にまでなったこともありました。

毎朝、出勤前に液状の黒糖に葛粉を混ぜたものを土鍋で作って、それを食べさせてから出勤し、昼もそれを看護師に食べさせてもらって仕事を終えたら、また真っ直ぐ病院へ向かう。

そんな日々が1か月ほど続き、奇跡的に回復した時もありましたが、介護生活が長くなるにつれ、酸素の機械に繋がれた母との生活をうまくやっていけるのか、高額な医療・介護費を払い続けることができるのかという不安、そして、一人ぼっちになってしまうのではないかという恐怖がどんどん大きくなっていきました。

20代前半の私にはこの胸の内を他人にさらけ出すことが情けないように感じていてずっとその悩みを抱えたままでした。

今、振り返ると、あの時、従兄弟や友人に真剣に話を聞いてもらっておけば、少しは気持ちが楽だったかもしれません。

母が退院した時は嬉しい反面、家で介護をしなくてはなりません。

育児と介護は似て非なり

少し前まで頼りにしていた存在である親を世話することに、楽しさなんて一つもなく、虚しさだけが押し寄せてくる。

親孝行したかったのに看病するだけの毎日となってしまった現状に
何度、枕を濡らしたかわかりません。

肉体的にも精神的にも年々、しんどくなってきて、亡くなる前の2年間は特に壮絶なものでした。

仕事から家に帰ってまずやることはポータブルトイレの汚物をトイレに流すこと。

家の中は、汚物の臭いがどうしても漏れてしまうので家に帰ると同時にその臭いで気が滅入る。
一日に何度も呼ばれては、床ずれの薬を塗ったり枕の位置を変えたり、モノを取ってあげたり。

ある時は、仕事から帰宅して家に入ったら食事が全部、畳間に落ちたままになっていて、その横で母がベッドに横になっている姿を見て、泣くのをこらえながら片付けたこともありました。

また、ある時は、「紙を持ってきて」と言われて『死、釜茹で』と書かれたメモ用紙を見た時は、私が傍にいながら、母は死の恐怖とずっと闘っているのかと、胸が締め付けられる思いでいっぱいになった時もありました。

そして、当時の介護地獄の根源は、私と母を捨てた父にあると、父を恨みに思う気持ちが後にも先にもこの頃が一番、強かったように思います。

母が亡くなったのは、私が26歳の時。その日は、突然やってきた

病院から職場に連絡が来て、その日の夜に息を引き取りました。
私は一人で母を看取ったわけですが、前日まで話もできていただけに心の準備もできておらず、ほんとにショックでなりませんでした。

くしくも、その日の日中、会社へ介護休業申請を申し出たばかりであり、また、その前日には、母があまり夕食を食べてくれないことに苛立って「もう知らない!!」と言い放って病室から出てしまい

それが母への最後の言葉になってしまったことを悔いても悔やみきれず、自責の念に苛まれることになりました。

そして、また、父がいてくれていたらと
思わずにはいられませんでした。

父の生き方が正しかったのかどうかをジャッジしようとすれば、私が苦しくなるだけ。そして、今更、母のことで自分を責めても過去は変わらないということも事実。

頭ではわかっていても、父に対する様々な想いや母に対する罪悪感が完全に癒えるまでには20年かかりました。

家族三人で普通の家族のような生活はできなかったけれど、私と映っている数少ない写真の中の父は、穏やかな顔をしていることに気づいたのはつい最近のことです。

恨みの感情が私の中にあることすら気づかなかったくらい、自分の心に蓋をして生きていましたが、真理を学んで自分自身を赦せたことで、父も赦すことができたのだと思います。

私をこの世に存在させてくれた父に、今は、心から感謝しています。